名指しと必然性(1)
ラッセルによれば、固有名は記述の束の省略であるとされ、確定記述(またはその群)で置き換えることができる。例えば固有名「アリストテレス」は「アレクサンドロス大王の家庭教師」という確定記述に置き換えられる。アリストテレスが我々の世界でアレクサンドロス大王の家庭教師であったことは歴史的な事実とされている。このため、この記述は正しい。
しかし、アリストテレスがアレクサンダー大王の家庭教師でなかった場合はどうだろうか。私たちは普通人生について実際に行ったこととは別の行為を行った場合について考えることができる。「もしあの時ああしていれば……」と自分の過去を思い返して想像したことがある人は多いに違いない。アリストテレスのケースについてこれを考えるなら、アリストテレスがアレクサンダー大王の家庭教師にならず、二コマコス倫理学を書くこともなく、哲学者でさえなかったことを考えることも可能である。
もし、固有名「アリストテレス」が「アレクサンダー大王の家庭教師」を意味するなら「アリストテレス」はアリストテレスを意味しないことになる。仮に「アレクサンダー大王の家庭教師」以外の、アリストテレスに関する記述によってアリストテレスを特定するにしても(アリストテレスは哲学者である、二コマコス倫理学の作者であるetc)、それらすべての記述をアリストテレスが満たさなかったことは想定できるし、また「アリストテレス」に関するすべての記述を満たすような(アリストテレスでない)対象が存在する場合、確定記述は唯一のアリストテレスを選び出すことはない。つまり確定記述はその記述を満たすような対象を選びはするが、指示することはできないと考えられる。
では、固有名は何も指示しないのか。そうではないとクリプキは考える。仮にアリストテレスがアレクサンダー大王の教師にならなかったとしても我々が「アリストテレス」という語を用いる時に指示するのは哲学者であり、二コマコス倫理学を書いたアリストテレス当のその人なのであり、「アリストテレス」を満たすような誰かのことではない。固有名は確定記述の束には還元できず、個体はその性質と同値ではない。固有名は固定指示子を持つというこの考えを擁護するためクリプキは命名儀式という言語的な約定を持ち出す。すなわち、ある人が「あの犬をポチと名付けることにしよう」と決意したとする。その「ポチ」という名前は最初に取り決めたその通りにほかの人にも伝達され、共有される。こうすることで「ポチ」という名前は最初にそれを名づけた人が意図した個体を常に指示することになる。*1