茨の繭

読書メモ兼日記帳。書評らしきものを書いてはいるが中身は何も理解していない

『名指しと必然性』 感想

 

一九五〇年代、六〇年代を通じて主要な問題設定を行い、論争状況をリードしてきたのがクワインであったとすれば、一九七〇年代以降にその役割を担っているのが他ならぬクリプキであり、とりわけ彼の主著『名指しと必然性』であると言わねばならない。

 

ーー訳者あとがきより

 

 このように言及されているように『名指しと必然性』は刊行されたのち分析哲学に大きな影響を与えた(らしい)。このあたりの事情には詳しくないのであまり言及できないのだが、なにより驚きを感じるのは、そのような高い哲学的クオリティを持った本著が連続講義をもとにしているという点だ。哲学書というのは普通深い思索を重ね、何年もかけて少しずつ書き継いでいき、幾度もの緻密な検討を経てようやく刊行に至るというイメージがある。しかも、それだけの準備を経ても多くの場合非常にわかりにくい。それは対象の難解さもさることながら、論述の正確性と説明のわかりやすさが比例しないことが原因である。

 ところが本著『名指しと必然性』は(哲学書にしては)かなりわかりやすく書かれている。講義を下敷きにしているだからこれは一見当然のことに思えるかもしれないが、記事の冒頭で引用した通りその議論の質の高さは折り紙つきである。内容をそのまま哲学書として耐えうるだけの強度を持ち、しかも講義というある種の即興できちんと講義として成立させるだけの説明のわかりやすさを維持しながらやってしまうのには感心するほかない。

 内容そのものについては別の記事で詳しく書くつもりなのでここでの言及は避ける。が、とにかく哲学書というものの難解さに苦労させられている(自分の理解力のなさは横に置くとして)身としては『名指しと必然性』の明快さはとてもありがたい。(それでも議論の構図を掴みきれないあたり、自分は本当にこういうことに向いてないんだなあと思いました、まる)