茨の繭

読書メモ兼日記帳。書評らしきものを書いてはいるが中身は何も理解していない

雑記、ソクラテス

最近講義の関係でソクラテスに取り組んでいる。いままでソクラテス著作(書いたのはプラトンだが)にはなんとはなしに偏見があって全然読んでなかったのだが、いざ読んでみると案外面白かった。
頭が痛くなってくるような混み入った論理で理論を構築してくる哲学書は結構多いがソクラテスにはそういったところもなくスラスラ読める。
『クリトン』あたりは全然哲学に興味ないし読むの嫌だという人間でも面白く読める人間が多いんじゃないだろうか。ページ数自体短編小説ほどの長さしかないうえ、無実の罪によって投獄され死刑にされようとしているソクラテスのもとに親友のクリトンが現れ彼の脱獄を手助けしようとするが、ソクラテスはそれを正義にかなわない行為だとして頑なにはねつける。というストーリーだけでも結構泣ける。
友情からソクラテスに逃げることを願うクリトンと、その気持ちに感謝しつつも、たとえ自分が不当な裁きによって命を奪われるとしても正義にもとる行いをしてはならないと、決然と死を受け入れあくまで正義に殉じようとするソクラテスの態度にはなかなか感じ入るものがある
ソクラテスほどには成れないにしろ、こういう潔さはちょっと見習いたい。
でもウダウダと日常を過ごしている僕が潔さを実践するとしたらいますぐ自分の人生にケリをつけるという形になると思われるのでやっぱり見習うのは無理そうである。

名指しと必然性(1)

 ラッセルによれば、固有名は記述の束の省略であるとされ、確定記述(またはその群)で置き換えることができる。例えば固有名「アリストテレス」は「アレクサンドロス大王の家庭教師」という確定記述に置き換えられる。アリストテレスが我々の世界でアレクサンドロス大王の家庭教師であったことは歴史的な事実とされている。このため、この記述は正しい。

 しかし、アリストテレスアレクサンダー大王の家庭教師でなかった場合はどうだろうか。私たちは普通人生について実際に行ったこととは別の行為を行った場合について考えることができる。「もしあの時ああしていれば……」と自分の過去を思い返して想像したことがある人は多いに違いない。アリストテレスのケースについてこれを考えるなら、アリストテレスアレクサンダー大王の家庭教師にならず、二コマコス倫理学を書くこともなく、哲学者でさえなかったことを考えることも可能である。

 もし、固有名「アリストテレス」が「アレクサンダー大王の家庭教師」を意味するなら「アリストテレス」はアリストテレスを意味しないことになる。仮に「アレクサンダー大王の家庭教師」以外の、アリストテレスに関する記述によってアリストテレスを特定するにしても(アリストテレスは哲学者である、二コマコス倫理学の作者であるetc)、それらすべての記述をアリストテレスが満たさなかったことは想定できるし、また「アリストテレス」に関するすべての記述を満たすような(アリストテレスでない)対象が存在する場合、確定記述は唯一のアリストテレスを選び出すことはない。つまり確定記述はその記述を満たすような対象を選びはするが、指示することはできないと考えられる。

 では、固有名は何も指示しないのか。そうではないとクリプキは考える。仮にアリストテレスアレクサンダー大王の教師にならなかったとしても我々が「アリストテレス」という語を用いる時に指示するのは哲学者であり、二コマコス倫理学を書いたアリストテレス当のその人なのであり、「アリストテレス」を満たすような誰かのことではない。固有名は確定記述の束には還元できず、個体はその性質と同値ではない。固有名は固定指示子を持つというこの考えを擁護するためクリプキは命名儀式という言語的な約定を持ち出す。すなわち、ある人が「あの犬をポチと名付けることにしよう」と決意したとする。その「ポチ」という名前は最初に取り決めたその通りにほかの人にも伝達され、共有される。こうすることで「ポチ」という名前は最初にそれを名づけた人が意図した個体を常に指示することになる。*1

*1:これは実に驚くべき議論のやり方で、多くの問題をはらんでいることは誰が見ても明らかである。しかし、断っておきたいのはクリプキは本文中で何度もこうした指示に関する自身の考えを見取り図であると述べていることだ。クリプキが目指しているのは完成された理論を構築することではなく、哲学上の新たなフィールド作ることなのである

『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』 感想

 外国語の習得に苦しむ人間は、下は高校受験を控えた中学生から、上は仕事上の必要に迫られて学生時代のテキストをひっくり返す社会人まで世代も人種も選ばず数多く存在しているだろう。(というか存在していて欲しい。できないのはお前だけだ。というオチは、はたから見てるのが楽しいのであって、自分が当事者の時には悲しみしか生まない)

 かく言う僕もその一人である。何の自慢にもならないが、僕は英語がさっぱりできない。高校時代から毎度赤点スレスレを低空飛行していた(たまに墜落するのはご愛嬌)筋金入りなので外国語学習には本当に苦い記憶しかない。大学入試の際に成績の開示請求はしなかったので詳細は不明だが、成績を見ればきっとそこには日本史と国語で得点ウェイトのほとんどが占められたデータが記載されていたはずだ。

 大学に入っても英語はついて回る。英語の講義は当然のことながら、英語文献も読まなければならないし、苦しいことこの上ない。英語を世界に広めて回った大英帝国を恨んだ日とて一度や二度ではなかった(完全なる責任転嫁)。

 だいぶ前置きが長くなってしまったが、そういうわけで自分の英語の不出来さ加減を改善すべく『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』という第二言語習得理論に関する本を読んでみた。何か外国語学習の助けになる実践的なヒントがあれば、という実用性重視の気持ちで読み始めたのだが、これが望外の面白さだった。作者の文章には特に冗談を言っているわけでもないのにどこかユーモラスな趣があり*1、具体例を交えながら説明してくれるので理解しやすく、もともと言語学に対する興味があったことも手伝ってかすらすら読めた。ただ、興味深い話も多く(文化的背景が言語の使用に影響するという「語用論的転移」など)*2読み物としては楽しめてよかったが、本書を読むことになったそもそもの動機、即座に外国語学習に応用できる知識などは見つからなかった。

 一応そのような知識にも言及されていないでもなかったが、その辺りは受験を控えた学生に先生が贈るような常識的な範囲のことにとどまっていたため、この本を読んで外国語学習の最新理論に従って効率的な学習に取り組むぞ! と意気込む人にはあまり参考にはならないだろう。「じゃあ第二言語習得理論なんて無駄じゃないか」という方のために擁護しておくと、学問的な観点からの確実に効率的な学習法というのが示せないのは、第二言語習得理論の歴史自体がまだ浅くいまだ発展途上にある学問領域のためであって、将来的にそのような完成された学習理論ができることはありえなくはない。

 まあ、どうやら学問に近道がないのと同じように、外国語学習にも近道はないようだ。まだしばらく外国語難民とでもいうべき僕の苦難は続くらしい

*1:この自然にユーモアが漂ってくる文章はどこかで見た覚えがあるなあと思っていたら佐々淳行を思い出した。彼もユーモアが自然に湧き出てくる不思議な文章を書く

*2:サピア・ウォーフの仮説に近しさを感じる。もっともサピア・ウォーフの仮説は言語が人間の営みに影響を及ぼすとするため関係性があべこべだが

『名指しと必然性』 感想

 

一九五〇年代、六〇年代を通じて主要な問題設定を行い、論争状況をリードしてきたのがクワインであったとすれば、一九七〇年代以降にその役割を担っているのが他ならぬクリプキであり、とりわけ彼の主著『名指しと必然性』であると言わねばならない。

 

ーー訳者あとがきより

 

 このように言及されているように『名指しと必然性』は刊行されたのち分析哲学に大きな影響を与えた(らしい)。このあたりの事情には詳しくないのであまり言及できないのだが、なにより驚きを感じるのは、そのような高い哲学的クオリティを持った本著が連続講義をもとにしているという点だ。哲学書というのは普通深い思索を重ね、何年もかけて少しずつ書き継いでいき、幾度もの緻密な検討を経てようやく刊行に至るというイメージがある。しかも、それだけの準備を経ても多くの場合非常にわかりにくい。それは対象の難解さもさることながら、論述の正確性と説明のわかりやすさが比例しないことが原因である。

 ところが本著『名指しと必然性』は(哲学書にしては)かなりわかりやすく書かれている。講義を下敷きにしているだからこれは一見当然のことに思えるかもしれないが、記事の冒頭で引用した通りその議論の質の高さは折り紙つきである。内容をそのまま哲学書として耐えうるだけの強度を持ち、しかも講義というある種の即興できちんと講義として成立させるだけの説明のわかりやすさを維持しながらやってしまうのには感心するほかない。

 内容そのものについては別の記事で詳しく書くつもりなのでここでの言及は避ける。が、とにかく哲学書というものの難解さに苦労させられている(自分の理解力のなさは横に置くとして)身としては『名指しと必然性』の明快さはとてもありがたい。(それでも議論の構図を掴みきれないあたり、自分は本当にこういうことに向いてないんだなあと思いました、まる)

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